Cataphora

これまでのこと、これからのこと

ミラン・クンデラの「冗談」を読んだ

去年の11月頃に「冗談」と言う本を買い、最近になって読み終わった。

本の表紙の袖書きの冒頭に「絵葉書に冗談で書いた文章が、前途有望な青年の人生を狂わせる」などと書いてあった。それを読んだ上での表題の「冗談」に目が行き、ああ、なんだかこれは読んでおいた方が身のためだとすら感じ、読んでみた。
突発的に嘘をつく経験は誰にあっても、それを引きずる所までは少ない。
これを読んでる間には様々な葛藤が含む背景があった。あまり小説の中の人に感情移入はしないはずなのに、所々で複雑に傷つきながら読む羽目になる。ざまあ。

 

 
この作品は1967年に刊行された暗い恋愛モノで、古く、口語文体は上品めいた書き方で(俺のブログと同じで読みづらい)、しかも時代背景は社会主義真っ只中のチェコ・スロヴァキアであり、自分の感覚ではこの作品の構成を理解するのはとてつもなく難しかった。生きる時代の違うところで生まれた愛は、感覚が掴みづらい。
でも憎悪は簡単に理解できた。なぜ。

ところで、作者のミラン・クンデラについては全く無知でこちらについて触れると、どうやらチェコ生まれのフランスの作家で、「存在の耐えられない軽さ」と言うのが代表作であり、映画にもなっていて有名らしい。
もちろん知らなかった。
こちらも恋愛映画らしく、もしゲオにあったら借りてみたい。

全体を通して、恋愛小説のはずなのに、これは他の読者がちょくちょくいっているように「哲学書」でもあり、チェコの「歴史」を物語る長い史書でもあると感じる。歴史については実はウッスラボンヤリにしか掴めなかったので割愛するが、明るい話ではないからだろうか。
外の世界については概要ばかりで人の内面に深く迫る話が繰り広げられていたと感じるが、どこの国の作品でも、闘争の多い時代背景を描く際は、人々の活力に焦点が当てられる傾向が高いと感じられる。活力は希望の種。ステキ。


主人公は章ごとにバラバラで複数いる(はずだ)が、前途有望な青年だったルドヴィークについてだけ、話の中身に入る。
彼はもともと共産党に所属していた党員だった。
そこで同じ党に所属していた人の恋人に対して手紙を送り、彼らのイデオロギーに反した内容を書き連ねて見せた。それは狼狽させるための「冗談」として書いたものだったが、発覚された後にゼマーネクと言う男によって追放、炭鉱送りとなってしまう。

絶望の中で炭鉱労働者となった彼が住む街で、今までの政治的社会的な理想などの価値観とは遠いルツィエと言う女性と出会う。
そして、ルドヴィークは惚れ、炭鉱を抜け出して彼女の元へと駆けることになる。
そこでルツィエに対して性を求めるが、ルツィエは拒否し、別の街へと逃げてしまった。

また失意を抱えた中で、次にヘレナと言う女性と出会う。彼女は、実は自分を共産党から追放した元凶であるゼマーネクの妻であることを知る。
当然に復讐心を燃やし、彼女を利用して行動を起こそうとする。
しかしゼマーネクはイデオロギーも妻も既に捨てていたため、
何も起こることはなかった。

・・・・まだ続きはあるが、いかがだろう。

手紙に書いた嘘が発端で、ルドヴィークの人生は陰りを見せ始めた。
嘘は身勝手そのものではあるが、実は発した本人が「嘘」なのか「冗談」なのかはっきりわからないということがあると、少し前に知り合いと話しててフッと感じたことがある。
どういうことかというと、表題が「嘘」ではなく「冗談」なのは、嘘にはなくて冗談には含まれる要素が関係している。
表題が「冗談」なのは、これに「遊び」や「おふざけ」の要素が大きく、移り変わりのある恋の中で「時には真摯に、そして時には冗談を挟む」ことによって緩急を設けては、過ごす時間を退屈に感じて欲しくないと言うだけの、単純なルドヴィークの心情があったのではないだろうか。
つまり、嘘か冗談かは発言者の善意や悪意の有無が関係している。

しかし、実際には、共産党の党員という一般市民よりかは高尚そうな立場の人間であったため、立場にそぐわない言動を起こしたために自滅する羽目にあう。
真っ先にルドヴィークを見て思ったのは、過去から目を背けるのではなく、事実を受け入れ、嘘や冗談の先にある、新しい多くの事実の糧を築くことを諦めないことだと感じる。えっ、そんなこと?と思われそう。

そして、それでも、その中で、人間だから当然に忘れてしまうということが起こりえる。
人間だから忘れて当たり前である。これは他人に示しも理解もつきづらい。
忘れやすい人はいるし、忘れたことに怒りを感じる人も、自分の記憶力を推し量って、または忘れた内容のために呆れるのだろう。
まず「忘れる」とは一旦記憶した本人にとって不必要となった、またはもともと印象的ではなかった事実のことのはずだ。
頭の中や肌で感じた多くのフィードバックの中では、本人が選択した大事さが記憶(長期記憶)となる。
ルドヴィークは目を背け、次々と動くことで忘れようと試みたが、この本を読み終わった上で雑な感想を書こうと思ったのは、今後、嘘と事実が記憶の中で絶対に介在しないために、しかも一部のそれは忘れても大丈夫なように、自分に対して戒めるべきだと感じたからであった。オツ。