Cataphora

これまでのこと、これからのこと

心は熱く、頭は冷静に

猿の惑星で生きる上で大事になってくるのはアツいハートなことは間違い無い

お盆休みが無事に終わりましたが、いかがでしたか
僕は仕事の集いでふらっと外出した以外は、慎ましく自宅で過ごしてました

春からエンジニアに転職し、今に至るまで仕事しつつ、スキルを伸ばすために先々に使うであろう他の言語も勉強しつつな毎日を送っているんですけれど、スキルアップのための勉強を、特に一人暮らしで続けてる人には本当に頭が上がりません
僕も一人暮らしとの時、少なくて貴重な休日に学習はしてましたけれど、色々と限界に達していました

生活が一変して来月で半年が経ちますが、ここで熱かった日々を振り返ろうと思います

 

上京一度目は、結論から言って大失敗
学業をメインの目的としたつもりだったんですけれど、ズレた生活、色々と不都合や身内の不幸などが重なり、職場の運も最後は最悪とボロボロ・・・

特に最後は、自分が「どうしようもないこと」に対してサラッて流すか、翻すつもりで強気に出ればよかったんですけれど、置かれた環境に対してどうすることもできなかった無力感とかに苛まれてしまい、ダウンしました

我慢強かったメンタルも、どんどん弱まって行き、色々な人に相談して、3月、実家に帰省

この時ほど実家のありがたみを感じたことは過去になかった

ただ、帰ってからも体調や気分が優れず、特に去年の冬から毎日のようにズキズキくる頭痛のせいで、寝たきりの日々

病院に行ったら、やっぱりメンタルに響く症状はあるね、という事で「少し休んだら東京に戻ろう」と考えていたのもちょっと無理そうで、さて困ったな、という状況でした

メンタルが落ち込んじゃうと、本当に何もできないんですよね
気力が湧かないせいか、ラインや電話なんかも溜まる一方で申し訳ないな、と言う状況だし、何より「ベッドから起き上がれない」これは本当にしんどかった

初出しですが、元々、「30になるまではやりたい事をやる」というのを高校卒業してすぐに決めていて、今28だからまだ2年猶予がある、と考えていたんですよね

ただ冷静に振り返ったら、この数年間、やりたかった事、半分もできてなかった・・・
自分の選択は間違いの連続だった事の裏付けだと思います


これは本当に悔しいし、本気で見直さないと大変な事になると、20代で一番の焦りが、春と共に訪れていました それに、もっと周りの人を頼ったり、意見とかにも耳を傾ける必要がありました

東京の家にはGW明け〜6月半ばくらいに戻るつもりでいたのですが、これは戻っても何も変わらない状況をズルズルと続けるだけだと悟り、かと言って一人暮らしを続けるにも生活費が必要になる・・・と言うことで僕は仕方なく東京の部屋を解約しました

実際に解約したのはGWくらいだけど、それまでの間は一ヶ月休み、また改めて「定職に就こう」とした訳です

電話もメールも返事なしの企業の方が正直多かったですが、運良く複数の企業で内定が貰えて、転職活動も一ヶ月半くらいで終わらせられました。

中でも未経験でも一定の知識がある事や(2021~2022に細々とカリキュラムは受けていました)、その先の将来の話なども企業側の価値観とマッチし、最終面接でわざわざ地元まで社長が来てくださって、好印象を持ってくださった会社に入社できたのは、捨てる神あれば拾う神ありというべきだろうか、運がよかったなと思ってます

簡単なサイト運営は中学生の頃からしてたけれど、あの時の自分がやっていたことは無駄じゃなかったんだな〜と、ちょっと感動 
ほぼ間違いなく、経験を買われたわけではないんですけどね 

 

気合でカバーします

 

転職先に選んだメリットとしては、興味のあった分野ができるし、何よりも一番魅力だったのは勤務先が都内にも複数あること

エンジニアは都市圏に職場が偏りがちなので、名古屋とか大阪とかも候補ってのは当然っちゃ当然ですが、人によっては事情で地元を離れたくないと言う人もいる中で、僕は近い名古屋への異動よりかは、どうせなら東京に戻りたいと思っていたので迷わずその意思を面接時から伝えていました

なんせ、地元よりも東京の方が気軽に話せる友達が多くなったし、ただエンジニアとして働くだけでなく、職務を通じてやってみたいことをチャレンジさせてもらえる機会を、上京した時に頂けれそうと言うのはモチベーションが上がりますよね
(その内容についてはまた後日?)

以上です

仕事は毎日学びしかないんですけれど、今の所は楽しい

まだ、絶賛研修に研修を重ねているペーペーな訳ですが、それも終わればいよいよ冬には都内に異動になりそう

失敗は成功のもと

トライアル、アンド、エラー

 

今年の春は頭が痛くなって、熱に脅かされっぱなしでしたが、夏には別の熱さが身を纏っていると思いたい

来年は今年苦しんだ分、とりあえず中目黒にでも戻って桜並木をゆっくりみたいなと思います

 

地元ラストスパート、頑張ります

(上までで丁度2000文字)

Hot照らす熱帯夜

セミすら土から起き上がりたくないのだから、人もベッドから起きたくないに決まっている真夏日、いや猛暑日 暑いですね 

地元ではセミがあまり鳴いてないです

ところでその昔、Amazonのレビューで「フリスビー」と評された上地雄輔の歌う「ミツバチ」という曲がありましたが、気温38度を「真夏日」と呼称し出オチと言われていたのをご存知でしょうか

あれ、正確には35度以上を「猛暑日」としているらしいです

暑さで誰だってバグるのだから許してやれとは思うし、気象庁の決めた事なんて知ってたまるか、暑いんだこっちは、と...

温度で定義が変わることよりも、夏日・真夏日猛暑日などによって影響を受けるアレコレについて知った方が有益だろうな、と感じたので調べてみました

以下は小学生の自由研究よりもレベルの低い駄文です

「気象災害の増加」

ここ最近毎日耳にする「熱中症」というのは病気であるのは想像に難くないですが、実は災害としてカウントされているそうです 

知ってましたか?僕は知りませんでした

災害は、そもそも人為的であれ自然的であれ、それが発生することで人々の営む社会生活に大きな打撃となり、結果として生命や財産を失うことに影響しているものが示されています

気温の上昇によって人体の均衡が崩れ、熱中症が引き起こされる...

そして、場合によっては死に至るというのは熱中症そのものが直接的な災害ではないにせよ、地震や土砂災害による被害の数と比べても、熱中症によって搬送される患者の数の多さは例年多いから、暑さを災害として捉えても差し支えない、と、そんな風に感じます

 

「降水量の上昇」

氷河は溶け、海水の高さは上昇するというのは昔からよく言われていますが、特に海なんかは日が照らされてれば常に蒸発しているので、水蒸気がとんでもなく増えます

大量の水蒸気は台風やハリケーンへと変貌するので、1度でも温度が上がると局地的であれど今後起こりうる別の災害を引き起こす要因となるよね

露点に達した水蒸気は大量の雲が作られるけれど、温度次第で大雨にも大雪にもなるので、地表が冷えるのは喜ばしいこととはいえ、上昇気流ができる要因は複数あるので、対策も難しそうです

 

改めて、気温について調べてみると産業革命のあった18世紀半ばから19世紀ごろより地球の平均気温は1℃上昇しているとのことで、地球の2500地点で「猛暑」を記録しているとのことでした 

岐阜県多治見市とかカウントされてるのかな?死ぬほど暑かったんだけれどあそこ

話を戻すと、これが0.5℃上がるだけでも500地点で猛暑となることが増えるのが予想されるらしく、国連の報告書(気温上昇を1.5℃以下に抑えるというもの)によると既に温暖化が歯止めが効きにくくなっていることから、現在よりも2倍近い範囲で猛暑を記録することになりそう

地球全体で猛暑の辛い暑さを受けることになるから、昨今話題になっている代替エネルギーについてもより関心が高まるし、迅速な転換は投資に依存されると思うので、今後の金の動きにも注目していきたいですね

(不幸ながらロシアのウクライナ侵攻の結果、エネルギー市場的には動向が大きく変化していますし、その動きは数年、数十年後に大きく影響されるのは、一つの指標となりそうです)

今年の夏は不要な外出を避けて自宅でのんびりしたいと思います

コロナが過ぎても、不要な外出を控えた方がいいだなんて、最悪ですね

人生で一番古い記憶 ペルー時代の後日譚

お題「人生で一番古い記憶」

 

「南米に住んでいた頃」の記憶を覚えている限り

おそらく当時2,3歳で、ペルーの首都リマから少し離れた地方都市に住んでいた 

そこは母親の実家だった

「水はそのまま飲めない」

上下水道については当然日本よりも遅れており、蛇口をひねれば水は出るが、決してそのまま飲むことは推奨されなかった

家の雰囲気は、窓には鉄格子がついており、当時はなんとも思わなかったが、今思えば「それくらい治安が悪い」んだと思う

外はガソリン臭かった 道路はそこまで舗装されてない

「日本人は珍しい」

肌の色が現地人からみたら白く、日系人もそこそこいたはずだが地元の人に珍しがられた 

よく家に知らない女の子がたくさん来ていたらしく、それが人生で最初で最後のモテ期だったのかもしれない

「白人の老人男性を見かけたら「クリントン」と呼んでいた」

クリントンと呼ばれる側も、自分が大統領と間違われるのはさほど悪い気がしなかったのだろう、南米特有の甘〜いお菓子をその度にもらっていた

(恐らく1997〜1999年ごろの記憶だが、当時ビル・クリントン氏が米国第42代大統領を務めており、僕がハッキリ覚えているくらいには、南米でもアメリカという存在は小さくなかったのだと思う またスペイン語に慣れるため毎日テレビを見させられていた)

ちなみに、そのお菓子は売り物だったらしく、おじいちゃんが後から代金を払いに行っていたらしい事を、10年以上後にカミングアウトされる

「テレビ」

テレビについては、アメリカの状況以外にも、ペルーでもドラゴンボールが放送されていた 親戚の兄ちゃんとよく見ていたのを覚えている

日本に来てからドラゴンボールを目にした時は、正直ペルーの作品だと思っていて誇らしく、日本のクラスメイトにそれを話したら嘘つき呼ばわりされ虐められた

なのでドラゴンボールは今でも見ないし読んでいない(とばっちり)が、それがきっかけで大阪から静岡へ転校したらしい 親から聞いたので本当かは知らない

「外出禁止」

発展途上国では常に政治情勢が不安定であり、当時のペルーも例外ではなく道を歩けばテロリスト、テロ関与の犯罪集団が潜んでいるのはごく普通だった

青年がいたら誘拐されるとかも時々あったらしく、教養のない左派から身を守るということが常に求められる緊張状態にあった 

また日本人であることは、現地人よりも危険と隣り合わせだったらしい
(ちなみに南米といえど「華僑」は当然あり、中華料理屋さんもそこそこあったが、中国人よりは日本人が狙い目だったとのこと 根拠を知りたい)

ボールで遊ぶことすらダメとされており、外出は常におじいちゃんと一緒だった

意外と知られていない事として、当時ペルーの大統領は「アルベルト・フジモリ氏」が任期を務めており、苗字の通り彼は日系ペルー人であった

外国で日本にゆかりのある人が要職に就いていた時代があった訳だが、実はこの時代、大使館がテロリストに占拠されるという大事件が勃発する

詳しくは

ja.wikipedia.org

こちらで確認できます

この記事ではやんわりとしか記載がないですが、母曰くテロリストと日本の大使は「結構仲良くなった」らしいです

そうせざるを得ない緊張状態が続いていたのだと思いますが、四ヶ月も一緒に生活すれば多少の関係性が変わるらしいですね

ソースを探しても見つからなかったのでこれは話半分ですが、テロを起こしたペルー人側が大使館職員に人生相談をしていたらしいです

また、これは、「ストックホルム症候群」と呼ばれる、人質が犯人を好意的に見る状態がありますが、逆に犯人が人質に対して好意的に見る状態を「リマ症候群」と呼ぶらしく、そのモデルケースとのことです

これを聞いて思ったのは、テロリストになる人たちって、それまでの人生で教育を受けたことがなく、人生においてもやはりチャンスを与えられない、得ることが無かった人たちなんだろうなと、感じました

等しく教育を受けるって、本当に大事ですね

 

「教会の近くのケーキ屋」

これは恐らくですが、首都リマの光景を断片的に覚えてるだけの話

教会というか黄色い西洋の建築が立ち並んでいる広場があるエリアで、その道沿いにあるケーキが本当に美味しかったのを覚えています

「黄色い」「西洋」「広場」と調べて見たんですけれど、どうやらこれ

「サン・フランシスコ教会・修道院」らしいです

en.wikipedia.org

リンク先は英語ですが、読める人はどうぞ

とにかくね、黄色いでしょ やっぱり本当にあったんですね

この近くに当時は恐らくケーキ屋さんがあり、しかも美味しかったのだろうという記憶が残っています

 

残念ながらケーキ屋の詳細までは調べても見つけれなかったですが、もう20年以上前の話なので無くなっている可能性もありそうですね

 

いつかは旅行で訪れたいと思い、昔を思い出してみました

 

 

 

 

 

 

起承「転」結

こんばんはニートです 

春が来て気分もポカポカな方が多いと思いますが、ニートでも春と同じくらい陽気でいられるようになって来ました 慣れって恐ろしいですね

東京から離れて一ヶ月半、地元で多少のんびり過ごしています

メンタルがやられてしまい、一人暮らしの継続も困難になって来た為帰郷しました

当初は頃合いを見て東京に戻るつもりでした 

なんせ都内で見てもそこそこいいエリアに住んでいたし、地元よりも東京のほうが気軽に話せる、遊べる友達も多くいるという事でなかなかその生活を手放すというのも、勿体無いと考えている訳です

しかし一つの区切りとしてこれは受け入れる事とします 

さて、家に戻ってからの目標は大きく二つありました

メンタルの調子を良くする、と避けては通れない「労働」の二文字が常に頭によぎっていた為、重い腰を上げて転職活動をしました

その結果、転職活動一ヶ月で2社内定がでました(4月17日(月)現在)

やってみたい業界の内定が取れた為そこにチャレンジしてみます

経過についてはブログで書こうと思いますが、都内への転勤も社長との面接で確定しているので、そう遠くない将来にまた東京に戻ることになりそうです

アドバイスや話をしてくださった方々には感謝いっぱいです

これで5月から「労働」ができます

報告は以上になりますが、ここで一つ

皆さんにとって仕事ってなんですか? 

僕は一生辿り着けないかもしれない「やりがい」を形(財やサービス)にする事だと最近は感じています

さっき書いた「労働」は、日本国憲法27条で「勤労」となり、国民に「勤労」の権利と義務を負っている旨の記述があるんですよね

法律で国民が働くことについては義務を課している、と解釈できます

もともとこの条文は旧ソ連時代のスターリン憲法に倣っているものなんですけどね

国民をいわゆるプロレタリア(労働者)として捉えようということで、制定当時の日本では「兵役より勤労」の背景があったものですが、いかんせん憲法の為なかなか改正されません

慶應に在学していた時はやたらロシアの歴史ばかり勉強していました(実は法律ではなく政治学専門)

不労所得で富を得ている人、ガチのニート憲法違反かと言われたらそうではない為、この条文は正直「古い」内容だとは思っています だからニートでもビビらずに生きましょう

当たり前ですが勤労の義務からは避けて通れない以上、ものの考え方を改めるしかありません

仕事をどう捉えるか?

重要になってきます

仕事を「やりがい」だと考えた際、これって全員に当てはまるわけではなく、個人的見解に留まる訳ですよね

他には純粋に「能力の発揮」や「生活の為」と動機が複数でてきそうです

やりがいとしたのは、昔から興味があって、やりたかったものにチャレンジできるので、ひとまず頑張って見ます

それと、中学生の時に勉強そっちのけで絵やサイト作りをしていた自分へ

グッジョブ

 

到頭

 

2023年になってましたね

1月だけで40万くらい使いました 全く後悔はありません

買い物を数年単位で悩むケースがあり、今回はそれらを買ったので満足 
でも家具がまだ足りないです

2022を乗り切った自分にご褒美全くなしとかあり得ないし、稼いだお金を家族や友達と一緒に経験や憧れに変えるって本当に素敵なことだと思います

家族には旅行とステーキを奢ったりしました 犬には下北沢で買った洋服もプレゼント 

まだ親孝行は足りてないので、今年もたくさんしていこうと思います

今年は楽しみにしていることが沢山あります

ちゃんとやりたいことが出来たのでやりますし、海外にだって行こうかなと思うこの頃

夏秋を予定していますが一週間くらいアメリカに行こうかなと計画中です

ロサンゼルスやシアトルなど行きたい場所と、そこでやりたいことがあります

ニューヨークは余裕があったら行きたいです

東西で時差も生じるほど広大な国ですが、遠い昔に雨のロサンゼルスを経験したことがあって、年間降水日が36日ほどしかないと言われながらもしっかり雨男出しちゃう所がらしいなと思いがちです

旅行は国内も予定していて、友達次第でどこに行くのかが決まるドッキリを仕掛けるつもりなのでこれもまた楽しみ 

Vlogみたいな形で撮る予定なので、事前に残し方とか試しにやってみようかな〜

ひとまず英語とそのほかにも、地道に頑張ろうと思います 

来月から本気出す

 

 

 

 

iPadが届いた。

iPad proが届いて、兼ねてからやりたかったadobeでイラストや画像の編集だったりを行えるようになったり、またこことは異なるブログ運営にチャレンジしたりと、やりたいことが盛り沢山な3月。

ブログ運営に関しては、せっかく関東に住んでいるのだから、それはそれは数の多いカフェ巡りをしていく中で、自分の好きなドット絵で飲んだり食べたりしたものを表現しつつ、読者にお店の良さを伝えていけるようなことを趣味として楽しめれたらいいなと思っている。

 

またイラストレーターを購入したので、今までドット絵しか描いてこなかったけれど、例えば半年でどこまで使いこなせるか、とかそういった自身の成長を促しつつ、やっぱりこれも楽しもうと思う。

それだけではなく、英語や法律の資格試験といった事柄にもこのiPadは役立つこと間違いなしなので、生活の中心になりつつあるこの機器を、使いこなそうと思っている。

色々と意気込んでいる中、早速これを使って進めるものとして、まずは4月開催予定のマーダーミステリーの開催がある。

少なからず楽しみにしている人がいる以上は、ペースを上げて完成させたい所。

タイトルは「時間泥棒」

今はまだ多くは語れないけれど、遊んでもらう時間を無駄にしないという自分への挑戦でもある。

今までできなかった編集が可能になったことで、表現の幅が大幅に上がったので、これを活かしてどこまで人を魅せつけるかが楽しみです。

「人に魅せる」というのは、中学生からの1つの指標なので、昔から付き合いがある人は僕がこれを言い続けているのを知ってると思います。

何で魅せるか、の表現は変わったけれどね。根本は意外とブレない。

 

マーダーミステリーについては、なんといっても「ミステリー」である以上は、そのトリックを悟られず、また参加者の予想を裏切ったり、常識を覆すような仕掛けもチャレンジしたいです。

何度も読み返したり、テストプレイをしてみたりするだけでも、のめり込むのは楽しいなって感じます。

 

チラシを10分くらいで作ってみたので、載せてみます。

f:id:ukyoele:20220303004610j:image

ここには書いてないけれど、5人用のゲームです。

 

プログラミングもほそーく続けているので、いつかアプリを作ってゲーム出したいですね。

夢のまた夢ですが。今日は確実に一歩近づきました。

ではまた。

短編小説1

私は津軽の出身で、名前は田島春。


「すめばみやこ」という言葉があるように、18歳で上京するまで、私にとってはそこが都であり、そこにしか世界はないと思っていた。
マグロ、りんご、新鮮な空気、フォトジェニックな鮮やかな色々。
私の宝物はそこに全部あるし、それを独り占めしてきた。
けど、いい歳だし、世界をもっと見てみたい。
多くを見て、宝物の良さをもっと多くの人に知ってもらえる機会に繋がる何かに還元したい、と言う気持ちがあり、地元から出て進学することにした。

上京した私は国際系の学部ということもあり、海外関連のサークルに入った。
インドやバングラデシュラオスなどにボランティア活動を行っている学生団体で、そこには現地からの留学生も多く所属していたので、コロナが落ち着いたら行くであろう国々のこともたくさん聞けて、地元しか知らない私には異文化の世界を触れる最初のきっかけとして大きな刺激になった。

ただ、刺激には良いものもあれば、良くないものもある。

環境が変われば最初は無理も承知で頑張るけれど、津軽弁も抜け切っていない私の日本語は、
都会の温室育ちには伝わらないし、イジられてしまう。
蝉の鳴き声が重なる度に、イライラも募り、私はサークルからフェードアウトしはじめてしまった。

私の住むアパート「Casa Lausa」は大学の近くという事もあり、同じ大学の人が多く住んでいる。
最初こそ大学にいる時間の方が長かったけれど、サークルから身を引いた私は自室で課題やその他の勉強に時間を割くことが増えていった。
唯一同じサークルの人が一人だけいて、もう辞めようと思いバイトでも探そうかな・・・って思っていたある日、その唯一の一人に声をかけられた。
断るのも申し訳ないし、その人の家に上がる事になった。
彼はインドからの留学生で、名前をMadhavaditya(マドハヴァディティア)という。
最初は一回も噛まずに言えたことはなかったし、彼の話は1にカレー、2に文化、3にビリヤニだったから、正直最初のうちは早く部屋に帰りたかった。

ただ、先輩は私の話や、話し方をバカにせず真剣に聞いてくれるし、日本人と話すよりも居心地が良かった。先輩からしても、「たどたどしい日本語」をバカにせず聞いてくれる人がいてくれることで、一定の安心感を得ていたらしい。

この居心地の良さは、先輩が淹れてくれる「インドの紅茶」でさらに高まっていく。
なんの茶葉だったかは当時は聞かされてなかったけれど、講義で疲れた私と先輩にとって、このティータイムは夏でも本当に至福の時だった。
仲良くなると、お返しに私もありきたりな料理をわざと多めに作って「日本食だよ、食べてく?」と言って彼と食事を共にする日々を増やしていった。
彼の口に日本食は合っているらしく、「ちょっと濃いかな・・・」と思う味付けでも本当に美味しそうに食べてくれた。

そんな日々を送っていると、気がついたら私はマドと付き合っていた。

気がついたら付き合っていたくらいなので、告白とかそう言ったものはなかったけれど、やっぱり私も気になることはハッキリさせたい性分だから、
ちょっと恥ずかしいけれど「私のどこが好き?」と聞いてみた。

そうすると「トニカク。ナマエダネ。」だとマドは答えてくれた。
そこは方便でも性格とか言って欲しかったけれど、私も自分の名前は大好きだから、
国籍が違っても、語幹であったり響の良さを共感してくれたのは凄く嬉しかった。

知りたいことを知れて笑顔でいたら、マドは突然「タージマハル。縁ガアルネ。」
と畳み掛ける。
一瞬嫌な予感はしたが詳しく聞いたら、彼はスマホを見せてきた。
検索欄に「タージマハル」と記され、白い宮殿の画像が掲載されていた。

そう言えば新歓のとき、自己紹介をしたときに外国籍の先輩はみんな驚いていて、私は不思議に思っていた。
「インド人が本当にビックリしていたのはそう言うことだったのね・・・」

見かねたマドは、慌てて弁解を述べる。
どうやら彼の名前「マドハヴァティア」というのはインドの言葉で「春」というらしく、それはつまり私の名前と全く同じだったらしい。

もっと早く、なんなら初対面の時に言って欲しかった。

しかし、当時のマドからすればその時には漢字の意味までは知る訳もなく、新歓の自己紹介で突然「タージマハル」と言う単語が出て来たら、そりゃ意識はするし、そこから「ハル」と言う名前とその意味を調べたら「春」が出て、それが自分の名前と同じ意味を表している事を知れば、もう運命としか捉えるしかない、とのことだった。
それで私のことが気になったようだった。

同じアパートに住んでいるのは、後から来たのは私で、偶然だけれど、私もその運命とやらにあやかるのも悪くないなと思って、マドを許すことにした。

 

秋も終わりに近づき、冬になると、

私たちは以前よりも頻度多く一緒に過ごすようになった。

 

マドの紅茶好きはどうも本当のようで、今まで淹れてくれた茶葉についてそろそろ教えてよ、って言ってみると、マドは早口で説明してくれた。マドは紅茶オタクだった。
私が今まで飲んでたのはアッサムティーらしく、アッサム地方はマドの地元だった。
紅茶は美味しいけれど、人が住むにはあんまりいい気候ではないらしい。
だから来ない方がいいよ、とマドは力説してくれた。
地元が好きなのか嫌いなのか、よくわからない人だった。


私も「寒い以外はいいところだよ」といって、実家から送ってもらったりんごを出し、それを切ったりパイにしたりして、お互いの地元の味を懐かしんだり、楽しむ時間を多く過ごした。

「ボクはムガル帝国のアッサムティー。春はツガル帝国のアップルだね。」と言われた時はせっかく淹れてくれた紅茶を吹いてしまったけれど、ダジャレを言えるくらい日本語がメキメキ上達しているのを横に見て、素直に感心した。

もう年の瀬、最初はインド人を名前でビックリさせた私だけれど、マドの異国で頑張る姿勢や日本語の上達の早さには私が一番驚かされている。

ところで、私はどうだろう。
周りの変化に対して自分は何が変わっただろうか。何か変われただろうか。
もし何も変化がなかったとしても、
ちっぽけな自分はいきなり大きくなろうとしても、きっと無理だろう。


これから、何を積み重ねていくことでなりたい自分になっていくか、そんなことを少しずつ決めて、また来年横にいるインド人をビックリさせてやろうと思う。
そんなことを思いつつ、私は寝落ちした。