Cataphora

これまでのこと、これからのこと

点について思うこと

点といえば達磨を思い浮かべる。

達磨は縁起物として有名、のはず。
まず祈願し左目を書いた後、その願いが叶えば右目をも描き完成とする風習が江戸時代からあるらしい。

元はインド人の仏教僧「ボーディダルマ」が由来とされており、9年間もの間坐禅を続けたといわれているが、これは「壁のように動ぜず真理を観する禅」として後に坐禅の定義としても確立されるに至るらしい。この修行していた寺がかの有名な「少林寺」だというのだから、それも面白い。

そして次に「画竜点睛」と言う四字熟語を思い浮かべる。

物事の最後に加える大切な仕上げを指す言葉であり、これを成して全体を一層引き立てることができる。

何か似ている気がする。

少し話を遡ると、少林寺には門派の一つとして「少林寺拳法」と言うものがある。
この新興武道は敗戦の真っ只中にいた日本人の気骨を養う、「自立」を起こすべく「肉体と精神が一つである」と言う霊肉一如の教えを中国から持ち帰り(諸説あり)表現しているものらしいが、人一人の人生においてそうした価値観に気づきが得られるのならば、確かに濃いなとも思うし、人一人も規模を抑えれば点であり、密度の濃いものとして自分たちは点在していると言える。 

また、点といえば囲碁部だった私は「囲碁」も当然ながら思い浮かべる。
白黒の碁石は碁盤状に敷かれた線の交差した箇所=「点」に石を置くのだが、高校生だった私は「なぜ交差点に置くのか?」と言う一見してもしなくても、とにかくくだらないことをよく考えていた。
部員にも顧問にも笑われたこのテーマだが、これには自分なりの回答は当時既に出来上がっていた。

ヒントになったのは部室にあった「ヒカルの碁」のとあるシーンで主人公ヒカルが「ここ宇宙なんだ」と言うものだった。
言うなれば碁石を「星」に置き換え、それが連なれば星座のような世界観を描くことができ、それができると言うことはその空間は宇宙だよね。といったオチである。

何が言いたいかと言うと囲碁は「石」で囲んだ範囲を陣地として計上し、その大小で勝敗を決するゲームだが、やはりそうならば線は脇役にすぎず、点こそ「星」が存在しうる可能性を秘めており、四角い枠の中に碁石を置いたならば、実際にやればわかるが一番外側の点にはおけないため、やはり規模の小さい事をしていることになる。
それはゲームとしては面白みに欠けてしまうのだ。

囲碁における自主性やデザイン性は線ではなく点ありきなのが面白いなと思ったので十分に変人だと自覚するが、これも趣味でやっていたドット絵には少しばかり役に立ったのである。

趣味は時に劇薬であるし、気づきであり、成長や挑戦、お金をもらうと言う成果を出せる場でもあった。
囲碁をやっていなければドット絵にハマることはなかったと言い切れるし、ドット絵をやっていなかったら囲碁の創造性に気づかないまま、頭を使わずヌルい手を打つだけの退屈な3年間を過ごしていたのでは無いかとすら思うので、相関性が自分の中では高かった。

絵には塗り方や表現が「個性」として尊重されるが、この「色」と言うのも元を辿れば「点の集合」である。ドット絵は「最大限に最小化」した芸術の表現方法の一つだと考えるが、尚更この「色」と言う要素は重要になってくる。

いわばミクロの世界で「どのように見せることが、『魅せる』ことに繋がるのか」と言うことを追求するのがドット絵における芸術性の評価点であると思うので、これを意識して時々結果を出せたらいいなと思う。私はそこから絶対的に「色」にこだわるようになった。もう描けなくなったが、意識的に思い出せる箇所ではある。
だが、最近は「実はやれるんじゃ無いか?」とすら思っているので、一見騙しつつやってみようと思う。

もし上手くいけば、秋には堂々と右目に濃い点を打てるはずだから。