Cataphora

これまでのこと、これからのこと

正しさとか

ここ数年、というよりも特に最近は正しさについてよく考える
そしてこれを考えている時は苦しいなとも、よく感じる 

それは、限定的だけれど「正しさの証明に嘘を利用するときもある」という自分の中の仮説が、いよいよ正しさを帯びてきたからだ 実は、かなり残念でマジで落ち込んでいる 

 

結構マジな話なんですけど、法律に興味を持った高校生ぐらいからそれに絡めて「自由ってなんだろう」とか「生きることにそもそも理由が必要なのか」とか、カフェや公園で佇んでいる時に、答えの見えない疑問と並んで考えていたことの一つだった(これだけでも俺が面倒臭い人間だとわかる)だけに、そして、経験からして「大体こうだな」って硬めた考えなだけに、これは本当に残念なんだよね
もっともそんなことを考えているだとかは、当時から知る人にも話した事はなかったけれど

ただこれ、あくまで「ネット」をやってた上での話で 
一体どれだけの人が目先の環境にいる、顔も本名も人生も知らない相手に自分を曝けれるのか、とか、そう言うことなんですよね

俺は結構そう言う質問や話は身構えるし、懸念したり、相手によっては畏怖を感じたりするし、人一倍そう言うのが怖いんだろうなと分析できる
だから真っ先に自分を守ることをしてました これ自体は間違いではないけれど

ただ、相手の身の上話を聞くと、自分に対して向けられる信用に対して間違いなく裏を切っている為、常々申し訳ないと感じてました

これは一番辛かったし、聞くべきではないとよく反省してましたね・・・

−−−単純に言ってしまえば、ネットを利用すること自体が間違いなく自分は向いていなくて、不適合者だったんだろう・・・ね

生まれた時からコンピュータのある生活をして、そのリテラシーなんて特に学ばずとも自己の判断によって情報の取捨や発信ができていたはずなのに、ある場面で「言われたことをすぐ鵜呑みにしてしまうか、究極的に疑うか」の二択に選択肢を搾っている「自分の悪い部分での自分らしさ」が出てしまい、守りに入ったはずがそれに苦しめられることになったのが、ここ数年では顕著でした 
部活で囲碁をやった弊害だとすら思ってしまいます

ただ、自分の感情や相手に対して思うことは、「思ってもいないことを言うのだけは絶対にしない」と言うのは、自分の中で信条としてましたね
自分が悪いのを自覚していた為、罪滅ぼしでもないけれど、現実での目標と同じように「優しくありたい」と願い、そうあるべきだとして行動していたのは強調したいです

これは「言葉の重み」について、人生の早い段階でその重要性に気がつけたからできたのかも
もし、これがなかったら、自分の中にある多くの罪悪感は出てこなく、あんな感情もこんな記事も出てきやしなかったと思います

まあ、仮説は仮説だからいくらでも反証は探せるよね
そして「そんなもので成り立つ良さや正しさがあってたまるか」って感じているから、やっぱ違うなってなれば多分少しはマシになれそう

ただ、自己防衛のために相手を傷つけるかもしれないことを「選択肢」として入れていることが自分にとっては間違いで、やっぱり「正しくない」と理解しただけでも、きっと成長できたんだろうなってプラスに捉えたいです

結局、何が正しくて、何が正しくないかとか、自分と他者の関係についても寄せて選択できればベストだし、それをすることで、いい大人になれそうな気がするって感じる