Cataphora

これまでのこと、これからのこと

やさしみ

今日もいつも通り電車に乗っていて、席をおばあさんに譲ったら降りる間際に声をかけられ、飴をもらいました。

何も狙った行動ではないとはいえ、優しさや感謝が形となって返ってくるだなんておめでたいですね。

ところで皆さんは優しさをばらまけるほどの忍耐をつけていますか?
僕はつけています。

「優しさ」を持ち、外に向けて行動するというのは、自分に対して忍耐や寛容さなどの強い精神性が育まれていないとまず行えないでしょう。
そこに愛を感じれれば、君もアンパンマンになれます。

ただ、行動した内容がステレオタイプに「優しさ」として判断されることはありますよね。優しくない人が起こした珍しい行動が「優しさに写る」というのとはここでは意味が異なります。

まず、人から優しいと判断されるには条件があり、基本の行動を気配りし、表現できるかが鍵です。この二つができればまず「優しい」と言われるでしょう。
あくまで基本的なことを行うことにより優しいと判断されるのですが、では、基本的なことが行えない人は優しくないのでしょうか?そんなことはないはずです。
よく、周りから優しいと言われている人が、そのような基本的な行動を取らなかった人に対して優しくはないけれど自分に易しいなどと言葉をかけるのを見たりします。

しかし、相手は、もしかしたら不安や緊張を感じているかもしれず、余裕がないのかもしれません。
基本、忍耐などのストレスがない状態で優しさを形にするというのは、無意識な領域かもしれませんが、自分に余裕がないと行えません。

余裕が無く、緊張や不安を感じながら過ごしている時に他人に対して優しさを配ることができないのは、のび太くんを見ていれば分かることです。テストの点数が酷くて母や青いタヌキから罵詈雑言を浴びせられる、空き地でスネ夫率いる不愉快な仲間たちにハブられた後の、彼の精神状況がまさに「余裕がない」を表しています。
やがてのび太くんは己の無力さに鑑みて、ヒステリック、排他的にになっていきます。
意固地に我が我がと思考がロックされてます。

また、出木杉くんのような目の敵に近い存在が置かれていると、それもストレスかもしれませんね。現実に置き換えるならば、優しさをばらまくナイスガイの存在がソレです。

つまり、優しくなるには自分に優しく・易しくなるところから始めてみてはいかがでしょう?
誰にでも経験はあると思いますが、受けた分を還元したい気持ちというのは心理的に芽生えるはずです。
ワガママに落ちるところまで落ちるなんてことはないと思います。

と長々と書いちゃいましたが、自分の観念を他人に押し付ける僕は、決して優しいとは言えないでしょうね。

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