Cataphora

これまでのこと、これからのこと

こちらの方が向いている

 

最近は、真新しいことが特にないせいもありますが、今をとても「やめたい」と言う気持ちが強くなっています。一見ネガティブですが、実はポジティブです。

「何をやめたいか」にもよりますが、ある意味それは「人生をやめたい」と言う一つの解に来ていると言えます。いや、本当にネガティブじゃなくて、ポジティブです。

果たして、これはヤバいことでしょうか?

誰にでも現状を変えたい、変わってほしいと思うことはあるはずです。それと一緒。

なので人生をやめると言っても、生命の活動まではやめません。

むしろ生命の活動を続ける気は満々です。(長生きしてやる)

ただ、今の人生は正直点をつけるなら及第点にも満たないと感じています。

なので今の人生は正直「やめてもいいかな」と考えています。
前向きにやめたいと思います。グッバイ。

そう言うわけで、何かが変わるのを期待する日々を過ごすこともあるのですが、これって変わらない日々を送るのと一緒なので、実は一番精神的にきついと気がついてしまいました。

期待するのは自由だけれど、何かを変えるには強い意志と強い行動力が必要なんですよね。知ってるのに、動けているでしょうか。否。ダメダメです。

・・・それにしても、残念なことに、人間は急に強くなることは不可能です。しかし、意志などの内面の部分は強く持てたり、もしかしたら「作る」こともできるはずです。そして、そこに「でも...」はありません。

そもそも「意志が弱い」と言うのは、意志が弱いのではなく、初めから意志を持っていなかったということに本人が気がついていないことが、多く、またそれが事実だと捉えています。

と言うのは、根拠としては弱いかもしれませんが、「意志」の意味そのものを調べてみると「どうしても、これをしよう、またはしまいという積極的な心ぐみ。」って出てくるんですね。

(文字通り「意志」をググってみてください。そう出ます)

心理学的にも、意志は「行動の原因となる精神的な過程」を表してます。物事の動機ってヤツです。

だから「意志が弱い」なんて言うのは、同じ内容や目的をもつ他人と比べたり、過去に同じであったり似たような意志を持った時と比べた結果としての強弱は、「間違いなくある」のですが、意志の比較そのものが、本人のためにはならないことを鑑みるべきです。そもそも比較すると言う感覚が、どこか違和感だったり、間違いを感じます。

また、意志を持ったり育む際は、意志そのものが個別的な精神性そのものであることを認識する必要があります。

この話の狙いは、最終的には「小さく、若しくは少ない進歩のある事柄を『強い意志』で動いていく」ことが可能で、気がついたら、それもいい意味で過去から変わっていられると信じていきたい、そんなところです。

お分りいただけただろうか。

こちらの方が向いている。