Cataphora

これまでのこと、これからのこと

ジムノペディ

僕は、中学は毎日部活漬けの生活だったので勉強をあまりしなかったのだけど、高校の時はやはり勉強をするタイプの人間だった。その時は必ずBGMを聴きながらしていた。題名も演者も知らないジャズやクラシックばかりを、パソコンの前で。
当時、妹や母は僕が遊んでいる所だけを掻い摘んで(部活でのフィードバックとしてヤフー囲碁をしてたり、ピグにもいた)怒っていたけれど、そういった音も遮断するかの如く、音楽と課題にのめり込んでた。

壮大であったり、しっとり系の音楽は抜群に効果があったと思う。
今日は一曲。

youtu.be


中学の時に「朝読書」と呼ばれる時間がSHRの前にあって、その時に流れていたサティの「ジムノペディ(第一番)」という曲がひどく好きだった。
まるでどうぶつのもりにかかる村のBGMみたいだけれども、この曲は最初に「負のイメージ」を連想させた。
と同時に、取り払うかのように落ち着きや優しさを、どこか切なげに伝えていると感じる。受け取る側の受け取り方にもよるけれど、そういったヤな事から洗い流されるようだった。

作曲者のサティは才能があったにもかかわらず、堅苦しい雰囲気に耐えられず音楽院を辞めている。その後は、若い芸術家の暮らすモンマルトルという地域で酌を交わし、ある日、自らのことを「ジムノペディスト(裸の子供)」と存在しない職を名乗ってしまったりする。
そのジムノペディストに実体を添えるため、この曲が作られた。
この曲は、当時のパリに蔓延っていた芸術の価値を変える遊び心のある曲として、その後の前衛的な芸術の指針とも言えたようだ。
そんな第一番から第三番まであるこの曲のイメージは、順に「苦しみ、悲しさ、厳粛」である。
前衛的とは言い換えれば「アバンギャルド」なのだが、時代背景的にも3つの曲に込められたイメージを打ち砕くような「芸術」が真価を帯び、又は得ていたのだろうか。

僕が好きな第一番は、苦しみ[Lent et douloureux]が込められているけれど、与えられている気はしない。
むしろ、挫折や苦悩を洗い流してくれるこの曲は、まだまだ好きでいたいし、
これから先もずっと聴いていくんだと思える。